エリック・ラクスマンととをして故郷サヴォンリンナ


エリック・ラクスマンはロシア・スウェーデン戦争(1741~1743)が始まる直前の1737年7月27日に東フィンランドの町サヴォンリンナに生まれました。(Sääminki kk, Uusikirkko, Pietari kk) オーボ条約によりサヴォンリンナはスウェーデン王国からロシア帝国に割譲されました。エリック・ラクスマンの生涯はサヴォンリンナにある オラヴィ城 (1475 年築城開始)のすぐそばで始まりました。彼は自分の名前のスペルをEric Laxmannと記しました。Erik Laxman と表示されることも一般的です。日本語でもラクスマンまたはラックスマン、名はエリックではなくキリルと書かれていることもあります。

父、グスタフ・ラクスマン(Gustav Laxman, Saarenheimo, 1939)はラッペーンランタもしくはハミナからサヴォンリンナに移住したとされますが、詳細は明らかではありません。彼はオラビ城から数キロにあったノヤマ―と呼ばれた区域に住む巡査の娘、ヘレナ・ファブリティウスと出会いました。(Porvoo tkp, 1738) その後ヘレナは婚外子を妊娠しました。このことは当時の慣習により牧師ポール・クロギウスによって厳しく処罰されました。1737年夏、二人は結婚し、その手続きがされました。この年、農民が支払った手続き税は16オーレ、兵士の身分で8オーレであった、という記録がありますが、グスタフは商人見習いだったにも関わらず全てを銀で支払うことになりました。(Krogius 1738) これらのことからエリックがどのような時代、環境に生まれたかを少し想像することができます。

ラクスマン夫妻は現在のLinnankatu通りに住居を構えました。エリックの父親に関しては1738年からの記録を確認することができます。(Valtionarkisto1976-1978) 彼は軍事造船プロジェクトに参加していました。ある記録には「グスタフ・ラクスマンは2バーレルの造船用タールと約15キロのシーリング材の取引をした」とあります。このことからその船が小さなボートではなく、大砲を積んだような大きな船だったことが窺えます。

その約百年後、芸術家カール・エネアス・ショーストランド(C.E. Sjöstrand)はラクスマンの生家の庭があった辺りから眺めたとされる風景を描きました。

ラクスマンの生家もこの絵に描かれた家のようなものだったと考えられる。作者: C.E. Sjöstrand, 1857.

これは、1737年にはすでに市の権利を失っていたサヴォンリンナを描いた最も古いものとされています。この頃の様子を作家ベルナルド・デ・セントピエルは次のような言葉でつづっています。「丘からの眺めは雪に覆われた岩と松が広がり、遠くには四本の塔(現在は3本)、水の流れ、湖、小さな建物がある、人は誰もいない。地平線の上に月そしてオーロラ」 (Hirn 1918).  

その当時,サヴォンリンナの牧師はパウル・クロギウスでした。現在のピエクサマキ教会に彼の肖像画が残されています。彼はよく自分の教区を「失われたシオン」と表現しました。オラヴィ城に隣接するタッリサーリ島にあったサヴォンリンナ最初の学校についての記録からもわかります。(Riipinen 2002) それは非常に荒廃した状態にあり、再建のための資金は遠くキテー(地名Kitee)やピエリスヤルビ(地名Pielisjärvi)から調達しました。

クロギウスは学校の監督官でもあり、彼は教区の教師(フィンランド語のlukkari、当時この職にある者は教師として牧師を補助し、通常は教会音楽も取り仕切った。)がほとんど歌えないことをとりわけ心配していました。この地域は音楽に関する環境は遅れており、サヴォンリンナで結婚式が行われる際にはキテーから呼び寄せなければいけないくらいでした。(Lappalainen 1970) 当時の教会登録簿にも一人だけ「ドラマー」の記載が見られます。 (Sääminki kk).

教区牧師パウル・クロギウス(1689-1762). 画 : Pieksämäen seurakunta.

オラヴィ城にはその頃、何らかの留置所がありクロギウスは「囚人や精神を病む人、苦しんでいる人を訪ね世話をするのに苦労している」とポルボー教区に報告しています。(Porvoo tkp 1738) ポルボーとミッケリの聖職者会議での決定の一つは、牧師の周囲で働く人たち、とくに教師には仕事中あまりアルコールを提供しないように、ということでした。また酔った状態で法廷に出廷することも珍しくありませんでした。当時のヘイキンポホヤ(地名、Heikinpohja)領主だったクリスティアン・サハロ(Kristian Sahlo)は教育に関して大きな責任のある立場にありました。彼はサーミンキ教会で最も価値があるとされた席を所有していました。それに加えて、約20の酒壺の持ち主たちから税を徴収する権利を持っていました。(Lappalainen 1970, Saarenheimo 1939).  クロギウスはフィンランド中の酒樽を一年間密閉することを提案しましたが、その案は通りませんでした。結局、牧師館の建築現場でも牧師が許可したアルコールを飲むような状態だったのです。(Lappalainen 1970).

幼少期の体験                                    

エリックが4歳、弟グスタフが生まれた1741年、サヴォンリンナでは赤痢とロシアからの攻撃に脅かされていました。この時行われたミサにはサーミンキ教区の教会員ほとんどが集まりました。教会ボート(湖の多い地域のため、島々から教会まで来るために20人ほど乗れる手漕ぎボート)で来るものもありました。(Alanen 1923). サーミンキ教区の人口は当時約2千人でした。その中に幼いエリックの姿もありました。彼は教会の色彩豊かな新約聖書の絵を観る機会を得ました。説教台に描かれたそれらの絵は今もサーミンキ教会ホールに保管されています。

サーミンキ教区ホールに展示されている古いサーミンキ教会の説教台。色彩豊かな絵が描かれている。写真: Pellervo Kokkonen

ラッペーンランタの戦いと呼ばれた戦いにはサヴォンリンナからも大勢が出兵し(Immel 1927)、その後休戦協定が結ばれました。ラクスマンの父グスタフは地元にいました。彼についてはいくらか嘘の報告がされた領収書が残っています。領収書には商人とありましたが、このとき彼にはまだ商人の権利はありませんでした。このような嘘はこの時代珍しくありませんでした。(Wirilander 1960).

1738年のグスタフ・ラクスマンの署名入り領収書

1742年の春、サヴォンリンナの一部の農民たちがフィンランド語で印刷されたロシアのプロパガンダが書かれた新聞の束を見つけ、クロギウスに届けました。

ロシアの女帝エリザヴェータのフィンランド人に向けたマニフェスト

ロシア人たちはエリザヴェータ女帝の名のもとに、フィンランド人たちがロシア帝国の支配のもと、独立した国を作るよう仕向ける動きがありました。(Lappalainen 1970) 少なくとも、ロシア・スウェーデン戦争を経験しスウェーデン軍の補助として何らかの民兵組織活動を始めていたサヴォンリンナ地域では人々はそれを望みませんでした。(Immel 1927).  商人たちもこの活動を援助したので、5歳のエリックもこのような大勢の動きを目にしたと考えられます。(Mattila 1983).

オラヴィ城に避難

1742年8月、ロシア人たちはサボンリンナを攻撃、ラクスマン一家は他の人たちと共に家族でオラヴィ城に避難しました。この出来事については後に制作された木版画に見ることができます。(Pelkonen 1902). 岩の周りでロシア兵達がオラヴィ城制圧の前に聖杯をあげました。(Saarenheimo 1939).

母親が妊娠後期だったラクスマン一家は、軍司令官が条約に合意したことで救われました。城の明け渡しについてフィンランド語訳にはこう書かれています。「砲兵と船の乗組員たちを含む全員と病人たち(海岸に3隻の大型ガレー船がありました。)は角笛が鳴り、旗がはためいている間は自由に制約なく行進しました。武器、装備、弾薬や衣類やその他の荷物、妻子たちを保持することを許されました。」この行進には5歳のエリックもいました。そして彼は自分の家やタッリサーリ島にあった学校が全焼し、オラヴィ城がどのようにしてロシアの支配下に置かれることになるかを経験することになったのです。(Saarenheimo 1939).

古きサヴォンリンナの名残り

ラクスマンの生家も修復されそれについても推測できることがあります。同じ地区に1700年代に建てられた建物が1900年代初頭まで保存されていたことが分かっています。

1700年代のサヴォンリンナの家の様子

エリック幼少期の通学路

ロシア支配下でも子供たちの教育は継続されていました。新しい教区管理事務所はオラヴィ城から少し離れたライターットシルタと呼ばれる地区の教会近くにあったため焼失を免れました。エリックが学問を始めた頃、そこで教師のマルッティ・トゥウィリング(Martti Twilling)と用務員モルテン・ユーティが有給の教育職員でした。エリックの初期の通学路は現在も自然林の一部として残っています。サヴォンリンナの墓地の隣にある小道はエリックの最初の通学路でもあったのです。また教育について資料が語るには教師のアルコールの使用と係争中の訴訟がその質を下げていたようです。(Alanen 1923)

エリックは12歳になるとランタサルミ(サヴォンリンナから約45km)の学校に通いました。彼はその学校の最初の生徒達の一人でした。そこでも校長は11月になってやっと配属され、学校施設は裁判に使用されることもありました。教師が不在という事態も度々ありました。(Salenius 1890). エリックはこの学校に5年間通い、休暇には父親の商いを手伝いました。記録によると毎年秋になるとサヴォンリンナとランタサルミを結ぶ道は状態が悪く通学は困難でした。冬にはオラヴィ(地名Oravi)やリンナンサーリ(地名Linnansaari)の北側に冬用の道路として整備されたルートを使いました。(Kinnunen 1995).  

恵まれない環境がのちに与えた影響

ラクスマンがこの地域で過ごした18年間はのちに学者、シベリア研究基礎を築いた人、植物学者、動物学者、化学者、物理学者、言語学者、気象士さらには日露外交に尽力した彼にどう影響したのでしょう。前述のとおり、恵まれていたとは言えない環境を詳しく調べるとそのことが見えてきます。資料からは少なくとも次のようなことが分かります。

エリックが大学に入った頃にトゥルク大学の学部長だったピエタリ・カームは学部長になる前に二度サヴォンリンナを植物研究のために訪れており、ラクスマン家に滞在したと思われます。(Kerkkonen 1959) ラクスマン家では両親がロシア語ができ、十分に場所があったためロシア人司令官たちはサヴォンリンナでは度々ラクスマン家に滞在しました。また、聖職者パウル・クロギウスやその側近アブラハム・ラヴォニウス、エリックと同じくらいの年齢だったクロギウスの息子フレデリック、砲兵長の息子アブラハムとオッラエウスらはラクスマンと様々なつきあいがあり、エリックの周りには友人達のほかに科学的な刺激もあったことがわかります。(サーミンキ教会記録)

エリック・ラクスマンの父グスタフは教会や、自分の仕事に子供たちを連れていくことがありました。サヴォンリンナのタルビサロという地域には鉛がでる場所があり、そこも彼の商いの場所の一つでした。エリックは後年シベリアで採掘にも関わっていました。その活動の中で彼はロシア人ポルスノフ(Lagus 1890) とともに蒸気機械の開発に力を注ぎました。機械の回転機能と往復機能を組み合わせることは当時大きな課題でした。そこでも彼が子供時代に目にしていた製材機が解決に役立ちました。

サヴォンリンナ、1700年代の製材所跡 写真 : Juhani Heiska

スウェーデン・ロシア戦争中、ロシア軍はサーミンキを攻撃し、約20戸を焼失させ、約50人の人々を殺し、または捕虜としました。彼らの多くはカルムイク人やサモエ-ド人で、殺した子供の血でさえも飲みました。これらの民族についての研究は後のエリックが関心のある分野のひとつでした。(Lappalainen 1970).

サヴォンリンナがロシアの一部になったあと、リンナンカトゥ通りにあったラクスマンの生家の近くにはロシア人兵士たちの農地がつくられました。そこにはフィンランド人には見慣れない植物もありました。このようにしてエリックは植物学の世界に触れることになりました。また、エリックが13歳の時サヴォンリンナ地域ではジャガイモの種を探していたことも注目すべきことです。(Saarenheimo 1939).  この当時、まだそれほど栽培が広まってはいなかったジャガイモについてはラクスマン家の商取引においても話題になっていました。のちに、エリックはロシアで本格的にジャガイモ栽培を始めたことでも知られています。(Hintikka 1938).

ラクスマン家は比較的高い教育を得られる環境にあったようです。ラクスマン一家には9人の子供がいました。彼らのうち4人はサヴォンリンナで亡くなったことがわかっています。またラクスマン家には例えば1751年には二人の従業員とお手伝いさんがいました。さらにこの時代は洗礼親の役割はとても大きなものでした。エリックの洗礼親が誰だったのかは不明ですが、ゲリラとして知られ、ヘレナ・ファブリティウスの父の兄弟だったタパニ・ローヴィング(Tapani Löving(Hornborg 1946) は1756年5月にエリックの父がエリックの弟ラルスとともに湖で溺死したあとエリックの通うポルボーでの学費を経済的に援助しました。ラクスマン家のほかの子供たちの洗礼親としては例えば中尉、教師、牧師、商人、引退した曹長、砲兵長、裕福な商人、領主の夫人、軍医、地方監理署長の妻、少尉などの職業だったと記録されています。(Säämingin kirkonkirjat). ロシア人の司令官たちが度々ラクスマン家に滞在していたこともエリックの教育に影響があったと思われます。例えば、戦争の後に国境交渉のために訪れた将軍ガンニバルは後の詩人プーシキンの母の父親でした。(Mielonen 1993) 国境交渉は何度も行われ、数か月にわたりました。誰かが彼の言葉をフィンランド語、あるいはスウェーデン語に通訳しなければなりませんでした。通訳の名前は記録にはありませんが、ロシア語ができたグスタフがその役を担っていた可能性はあります。

シベリアでの研究旅行中エリックはトロイカと呼ばれる馬橇で移動することが多くありました。この移動法はランタサルミの学校に通っていたころに学友たちとイーサルミ(地名Iisalmi)まで旅したときに体験していました。エリックがまだランタサルミの学生だった頃、教師だったニルス・アガンデルは妻との間の問題を解決するために学生たちを橇に乗せ妻のいたイーサルミまで行き、話し合いを続けながら生徒たちを教えていたことがありました。(Soininen 1954).

エリック自身がこの頃のことをこう懐古しています。「子供のころから貧しさと欠乏と戦うことを余儀なくされた。援助を受けることもできず、全力で道を切り開いてきた。」(Lagus 1890).

なぜ貧しく困難な状況から光り輝くダイアモンド、つまり注目すべき人物が出現することが度々起こるのかということを証明することはできません。エリック・ラクスマンのケースでは、教育環境が後年影響したということはよく調べなければすぐにはわかりません。サヴォンリンナでも1700年代にはすでに現在のような教育方法がみられました。教師が教室の前方で教え、生徒達がただ聞いているような形ではありませんでした。

その後の教育

ラクスマンは18歳になるとポルヴォ―の高等学校に入学しました。翌年彼の父グスタフは春の凍った湖で溺死しました。前述の親戚や有名なゲリラだったタパニ・ロヴィングが経済的な援助者となりました。エリックの卒業証明書も残されています。それは科目ごとの評価が書かれているわけではなく、大学の学長宛ての推薦状のようなものです。

エリックはトゥルク大学で少なくとも2年間勉強しました。その後、彼はセントペテルブルクで牧師の資格を取り、最初の赴任地ウーシキルッコに職を得ました。(Salenius 1907).

大佐の娘クリスティーナ・マルグレタ・ルンネンベルグはエリックの最初の妻でした。ルンネンベルグという姓はサヴォンリンナの教会登記簿に見つかりますが、グスタフの名も娘の名も見つかっていません。最初の妻に先立たれたエリックはその後二人目の妻、カタリナ・ルースと再婚しました。このルースの姓もサヴォンリンナの教会登記簿から見つけることができますが、これ以上詳細については分かっていません。

エリック・ラクスマンの卒業証明証、すなわち大学推薦状

エリックと故郷

エリックは弟、ヨハンを援助し、ウーシキルッコに住んでいた間は弟たちグスタフとアブラハムの面倒をみました。(Salenius 1907). またサーミンキ教会に1776年に設置された大きな鐘を寄贈しました。(Alanen 1923) この鐘は後にサヴォンリンナ大聖堂に移されましたが冬戦争の火事で落下しました。その時の写真が残っています。

ラクスマンが贈ったサヴォンリンナ大聖堂の鐘、この写真は冬戦争の爆撃後に撮影されたもの 

壊れた鐘は再度鋳造され現在もサヴォンリンナ大聖堂で使用されています。

サヴォンリンナ人が冬の氷点下の寒い日、ガラスの窓から外を眺めるとき、ルバーブのデザートを食べるとき、この人物を思い浮かべるべきだろう。エリック・ラクスマンはガラス製造法や温度計の発展、気候に関する研究、植物学を利用してフィンランドにルバーブを持ち込みました。 (Hintikka 1938) サヴォンリンナ市立図書館には新しいエリック・ラクスマンの肖像画が飾られています。以前の大学敷地跡の周囲の林はラクスマン公園と名付けられ、そこには植物ラクスマニアのための場所もあります。

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