日本への架け橋
エリック・ラクスマンは1789年イルクーツクで、日本人漂流民たちに出会いました。日本人の船頭、大黒屋光太夫とその乗組員たちは日本への帰国を望んでいました。ラクスマンは彼らの願いを叶えるため、尽力しました。エリック・ラクスマンは大黒屋光太夫をエカテリーナ女帝に会わせ直接帰国許可を願い出る機会を実現しました。ロシアは当時すでに150年鎖国状態にあった日本と通商をすることを希望していました。1782年、エリックの次男、アダムが使節代表を務める遣日使節団がロシアから出発しました。エリック・ラクスマンと日本人たちの出会いは初の日露会談実現へとつながりました。
エリック・ラクスマンと日本
エリック・ラクスマンは1789年イルクーツクで日本人たちに出会います。彼らはロシアに漂着した商船、神昌丸の乗組員たちでした。 神昌丸は江戸へ向かうため伊勢の港を出港しましたが、嵐に会い難破、漂流し1783年にアリューシャン諸島に漂着しました。彼らはカムチャッカ、オホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクにたどり着きました。日本を出港したときには17名いた乗組員はこの時、大黒屋光太夫、磯吉、新蔵、正蔵、小市、久右衛門の6人だけになっていました。漂流から約6年の歳月が経っていました。
漂流民たちはロシアから正式な帰国許可を得て、当時鎖国中だった日本へ帰国することを望んでいました。神昌丸の船頭だった大黒屋光太夫は帰国許可の申請をしましたが聞き入れられませんでした。エリック・ラクスマンはあらゆる面で日本人漂流民たちを助けました。彼は日本人漂流民たちに様々なことを教え、経済的にも援助しました。同時に日本人たちからは日本の地理や言語についての知識を得ました。
ラクスマンは大黒屋をサンクトペテルブルクへ同行し、ついに1791年にエカチェリーナ2世は漂流民たちの帰国を許可し、彼らを日本に送還する手配を整えるように命じます。遣日使節の代表はエリックの息子、アダムが務めました。エリックはロシア船エカテリーナ号が出港したオホーツクまで見送りました。
エリック・ラクスマンはイルクーツクでの出会いから漂流民たちの帰国までのおよそ3年間を彼らと共に過ごしました。彼には日本への調査旅行の計画があったようですが、実現に至らないまま亡くなりました。大黒屋光太夫は帰国後の幕府の取り調べにおいて、ラクスマンについても語りました。
アダム・ラクスマンと日本
エカチェリーナ2世の命により、ロシアから日本へ向けて送還船が出港しました。使節団の代表はアダム・ラクスマンでした。アダムはエリック・ラクスマンの次男でロシアで1766年に生まれました。
アダムの航海日誌によると、船は1792年9月13日にオホーツクを出港し、同年10月9日に根室に入港しました。(現在の暦では1792年9月24日オホーツク出港、同年10月20日根室入港)
船の名前はエカテリーナ、ロシアから日本への初の公式使節団が到着したのです。船には42人が乗っていました。
アダムの任務は3人の漂流民、光太夫、磯吉、小市を日本に送り返すこと、そして日本に対してロシアとの通商開始の要求でした。当時ロシアは東シベリアにおいて毛皮貿易が盛んだったため、日本での食糧調達を望んでいました。
使節団は日本からの正式な受入れを待ちながら根室で8か月過ごしました。彼らはその間、根室で宿舎を建設し日本人たちと情報交換しました。ロシアと日本の地図を模写し、船の模型や辞書を作製したりしました。アダムはロシアへ持ち帰るための植物や鉱物を熱心に採集しました。ロシア人たちは凍結し根室港でスケートをしました。これが日本初のスケートだと言われています。
アダム・ラクスマンは日本との通商開始を要求し、このため1973年に現・北海道松前で日露会談が行われました。日本は鎖国しており、当時交流のあったのは中国とオランダだけでした。
同時に大黒屋光太夫と磯吉の日本への受け渡しも行われました。小市は根室で上陸許可を待つ間に亡くなっていました。アダムには長崎への入港許可書である信牌が渡されました。長崎は当時外国人(オランダ人と中国人)が上陸できる唯一の場所でした。
使節団は現在の暦で函館から1793年8月22日に出港、同年9月19日にオホーツクに到着しました。(アダムの航海日誌の記録では1793年8月11日函館出港、同年9月8日オホーツク到着)
アダム・ラクスマンの来航は日本の歴史において重要な出来事でした。この後、日本ではロシアに関する研究が進み、加えて北の防衛政策により力が入れられるようになりました。
日出づる国のラクスマン展
アダム・ラクスマンについての展示、サヴォンリンナ・リーヒサーリ博物館(29.4. – 14.8. 2022)
- 国を閉ざしていた日本
- シベリアでの出会い
- 太平洋での遭難
- 女帝に会いにサンクトペテルブルクへ
- アダム・ラクスマンの指揮で日本へ
- 根室での 8 ヶ月間
- 移動手段と 儀礼に関する話し合い
- 交渉と贈り物
- 遣日使節一行の功績
1. 国を閉ざしていた日本
島国である日本は長い歴史の中で国外からの影響に対して時には国を閉ざし、時には積極
的に対応してきました。数百年間にわたって国を治めていた武士階級の最上位が将軍でし
た。最初に日本を訪れた西洋人は 1543 年の漂着以来交流のあったポルトガル人の船乗り、商
人、宣教師たちでした。 次に交流があったのはオランダ人たちでした。 外国に対する疑念
はあったものの、 初期のころは日本と西洋の間に活発な交流がされました。その疑念はと
りわけポルトガルが行っていた奴隷貿易のためでした。
江戸時代(1603–1868)日本は世界から孤立していました。 日本を出国すること や出国し
たものが帰国すること は禁じられていました。ポルトガルとの関係は完全に途切れ、彼ら
は追放され 1600 年代中頃には日本の外交は限られたものになっていました。 その頃には
中国と、オランダ東インド会社だけが長崎の出島に来ることを許されていました。 オラン
ダ人を除く 西洋人は殺害するように命じられました。
しかし、カムチャツカ半島などに漂着し困窮した船乗りが外国人によって助けられたりす
ることもあり、外界との接触を完全に防ぐことは不可能でした。 長期にわたってロシアに
滞在した最初の日本人として伝えられているのは伝兵衛という漁師です。彼は 1700 年代
初めにカムチャツカ沖で遭難、 漂流しロシア人の助けでモスクワ 、サンクトペテルブルク
まで旅したことが知られています。
徳川幕府初代将軍 徳川家康
画像はウェブサイトよりダウンロード
(パブリックドメイン) Wikimedia Commons.
2. シベリアでの出会い
1737 年スウェーデン領であったサヴォンリンナに生まれ、ロシアで高い地位を得たエリ
ック・ラクスマンは牧師であり探検家であり博物学者でもありました。彼は 1789 年冬、
南シベリアのイルクーツクの地で日本人漂流者たちと 出会うことになりました。 エリッ
ク・ラクスマンは漂流した船の船頭、大黒屋光太夫と親しくなり、彼らの帰国に力を貸す
決意をしました。
当時すでにシベリアで活動していたエリック・ラクスマンがイルクーツクに滞在していた
のは不思議ではありませんでしたが、果たして日本人漂流民たちはどのようにしてイルク
ーツクまで辿り着いたのでしょうか。
3. 太平洋での遭難、漂流
日本の船、神昌丸は北太平洋で嵐に遭い 1783 年アリューシャン諸島のアムチトカ島に漂
着しました。その 4 年後、ロシア人たちの協力でカムチャツカ半島へ渡りました。 17 人
だった神昌丸の乗組員たちはこの時すでに 9 人になっていました。カムチャツカでさらに
3 人が命を落としました。
シベリアでの旅の様子(日本語資料)
資料提供: 大黒屋光太夫記念館 鈴
その後、 なんとか生き残った 6 人の日本人漂流民たちは 1789 年2月南シベリアのイルク
ーツクに到着します。彼らは日本への帰国を切望しましたが、ロシアからの正式な出国許
可なしではそれは叶えられませんでした。ここで救いの神として登場したのがエリック・ラク
スマンだったのです。エリック・ラクスマンは漂流民たちの 3 度の帰国申請提出に尽 力しま
したが、それでも帰国願いは聞き入れられませんでした。
漂民御覧記 (この資料では漂民上覧記)の一部
資料提供 : 大黒屋光太夫記念館 鈴鹿
4. 女帝に会いにサンクトペテルブルクへ
1790 年エリック・ラクスマンはシベリアで収集した植物や鉱物の標本をロシアの首都サ
ンクトペテルブルクへ献上するようにとの命を受けました。彼はこの旅に大黒屋光太夫を
同行させることにしました。計画としては大黒屋をエカテリーナ2世に会わせ、直接帰国
の許可を願い出るというものでした。ラクスマンは国費での旅でしたが、大黒屋の旅費は
ラクスマンが負担しました。
1791 年 1 月、 5000 キロを超える旅が始まりました。キビツカと呼ばれる幌付きの馬車は
通常 8 頭引きでしたが、途中 20 頭で引かせる必要がある場所も通りました。約 1 か月後
の 2 月 19 日、サンクトペテルブルクに到着しました。しばらくしてラクスマンと大黒屋
は女帝の夏の宮殿の管理を任されていた人の邸宅に滞在することになりました。
エリック・ラクスマンと大黒屋光太夫は夏の宮殿ツァ―ルスコエ・セローで 1791 年 5 月
28 日エカテリーナ2世に謁見しました。同年秋、女帝はロシアの遣日使節一行による漂
流民たちの帰国を許可しました。ロシア側には漂流民を送り届けると同時に日本との通商
の可能性を探ろうとする狙いがありました。
5. アダム・ラクスマンの指揮で日本へ
1792 年 1 月エリック・ラクスマンと大黒屋光太夫はサンクトペテルブルクからイルクー
ツクに戻り、冬を過ごしながら日本へ向けて出立するための準備を始めました。同年 5 月
イルクーツクを出発、 8 月にはロシアの極東にある港町オホーツクに入りました。
オホーツク海に面したオホーツクの町でエリック・ラクスマンと大黒屋光太夫の道は分か
れることになりました。エリック・ラクスマンが日本に行くことはありませんでしたが、
ここから先は彼の息子アダム・ラクスマンが遣日使節として引き継ぎました。オホーツク
から 2000 キロを超える船旅を経て、 1792 年秋 10 月 20 日ロシア船エカテリーナ号は現在
の北海道根室へ入港しました。
オランダと中国の船が長崎に来航する以外、その当時すでに 200 年近く外国から孤立して
いた日本にとってロシア船が現れたことは珍しい出来事でした。しかし約 10 年間行方不
明だった日本人漂流民を送り届けてきたこのロシア船は例外でした。
17 人いた乗組員のうち帰国が叶ったのは船頭大黒屋光太夫、磯吉、小市のわずか 3 人だ
けでした。小市は日本までたどり着いたものの、上陸許可を待ちながら根室で命を終えま
した。ほかの乗組員たちはほとんどが漂流後数年の間に亡くなりました。ロシアに残りロ
シア人として生きることを選んだ者も 2 人いました。
エカテリーナ号(日本語資料、1936 年作成)資料提供:大黒屋光太夫記念館 鈴鹿Wikimedia Commons, CC-0, public domain.
6. 根室での 8 ヶ月間
アダム・ラクスマン率いる一行は 1792 年から 1793 にかけての冬を根室で過ごしました。
根室港の近くに宿泊施設を建てました。もちろん蒸し風呂(サウナ)も作りました。 住環
境が落ち着くと現地の植物、動物、鉱物などの採集にも精を出しました。
外交交渉開始までには数か月待たなければならず、その間に現地の役人たちと の知識交換
や文化交流の機会もありました。アダムが日本側の役人たちに大きな地球儀や世界地図を
見せると日本人たちはそれを写し取りました。彼はその時のことを「日本人たちは非常に
薄い紙を地図の上にのせ、その上から器用に筆で写し取っていた。」と 日誌に記録してい
ます。
彼らは役目を果たすだけではなく楽しむこともあったようです。ロシア人たちが凍った海
でスケートをする様子は日本人たちを驚かせました。またアダム・ラクスマンは 1793 年
2 月に行われた日本人たちの新年を祝う会にも招待されました。
根室での遣日使節一行の宿舎
資料提供:大黒屋光太夫記念館 鈴鹿
アダム・ラクスマン一行により日本にスケートが紹介された。
スケート靴とスケートをする人の 図(日本語資料)
資料提供:大黒屋光太夫記念館 鈴鹿
7. 移動手段と 儀礼に関する話し合い
5 月になると日露間での交渉が行われる松前への移動について話し合われました。日本側
はロシア人たちが江戸(現・東京)に向かうことを恐れて船での移動を受け入れませんで
した。 一か月にわたる話し合いの末、ラクスマンたちは北海道箱館までは船で、そこから
松前までの約 100 キロメートルは陸路で移動することで合意しました。
交渉では当然お互いに敬意をこめて振舞わなければなりません。日本人たちは靴を脱ぎ床
に座りお辞儀をするという彼らの方法を説明しましたが、アダムはそれを拒否しました。
協議の結果、双方それぞれ自国の方法で挨拶をすることになりました。
8. 交渉と贈り物
日露交渉は 1793 年 7 月から 8 月にかけて松前で行われました。出席者の中には江戸から
派遣された役人もいました。一回目の会談で日本側からロシア側へ三振りの刀と 米が贈ら
れました。
交渉は慎重に計画された。交渉が行われた松前藩浜屋敷の警備図 (日本語資料)
大黒屋光太夫記念館 鈴鹿
二回目の会談でアダム・ラクスマンはイルクーツク総督イヴァン・ピーリからの信書を日
本側に渡そうとしましたが、これは拒否されました。ただし、その手紙を声に出して読む
ことだけは許されました。 日本側は信書を受取ることはありませんでしたが、会談後江戸
から派遣されていた役人がロシア側の通訳に信書の写しを秘密裏に依頼しており 、 アダム
はこれを許可しました。この会談では漂流民大黒屋光太夫と磯吉の正式な引き渡しも行わ
れました。アダムが彼らを見たのはこの時が最後だったようです。 大黒屋と磯吉は江戸に
送られました。
アダム・ラクスマンは松前藩主への面謁を希望しましたがこれも叶えられませんでした。
江戸から来ていた役人にはピストル、ガラス器、鏡、温度計を贈りました。アダムは彼ら
に、 父エリックから江戸の研究者たちへの贈り物として預かってきていた研究器具などを
託しました。
9. 遣日使節一行の功績
会談終了後まもなくアダム・ラクスマンは松前から箱館へ戻り、 8 月下旬には帰国のため
の出航準備が整いました。数週間の航海のあと、 1793 年 9 月 19 日ロシアの使節一行はオ
ホーツクに到着しました。
アダム・ラクスマンの功績は日本の三番目の通商国として長崎への入港、及び船員の下船
を許可する信牌を受取ったことでした。
ロシアにとって経済的利益はほとんどありませんでした。当時ロシアの状況は不安定でし
た。 日本へ使節一行を贈ること を許可したエカチェリーナ 2 世は 1796 年に亡くなり、後
継者パーヴェル1世は貴族のあいだでの評判が悪く 1801 年に暗殺されました。 ロシアは
ヨーロッパで戦争中だったこともあり、日本への関心は薄れてしまいました。
アダム・ラクスマンの報告書、 日誌、地図などはロシアにおいて日本に関する情報を提供
することになりました。 彼が日本から持ち帰ったものや標本はロシア初の公立博物館、サ
ンクトペテルブルク人類学・ 民俗学博物館クンストカメラのコレクションに加えられまし
た。
アダム・ラクスマン肖像
函館市中央図書館蔵 Wikimedia Commons, CC-0, public domain.
展示は主に 2021 年 9 月に東フィンランド大学で審査された Chikage Konishi-Räsäsen(小西ラサ
ネン千景) の修士論文の内容を参考にしています。
書誌 Bibliography.