エリック・ラクスマンのロシアにおける経歴と科学的業績
エリック・ラクスマンは、18世紀にシベリアで活動した先駆的な科学者でした。ラクスマンは自分の周囲環境を熱心に調査し、新しいアイデアを実験しました。啓蒙主義の精神に基づいて、彼は訪ねた地域の経済的可能性を探求しました。科学分野が形成される前の時代、ラクスマンの関心は幅広い分野に及んでいました。このようにして、彼は後世の研究を刺激するコレクションを残しました。関心のあったほとんどの分野において、彼はロシアにおける先駆者であっただけでなく、国際的な科学界における最前線にありました。彼の最も重要な貢献は植物学、昆虫学、鉱物学の分野でしたが、気候学、気象学、ロシア帝国と日本の地理的および民族学的知識の分野においても貢献しました。
エリック・ラクスマンは、恵まれた環境にはありませんでした。生計を立てるため、働かなければならず、学費の不足によりトゥルクの大学での学業も中断せざるを得ませんでした。彼は牧師助手として働き、サンクトペテルブルクに移った後、フィンランド・ルーテル教会牧師として奉仕しました。その後ラクスマンは 1762 年にサンクトペテルブルクのドイツ学校で科学教師の職を得ました。
ドイツ学校での職は、ラクスマンがドイツ人地理学者アントン・フリードリヒ・ビュッシング (1724-1793) と知り合ったことがきっかけでした。ビュッシングはちょうどその時、彼の最高傑作『地球の記述』を完成させたばかりでした。ラクスマンはドイツ学校で自然史と植物学を教え、バルナウルのドイツ教区の牧師の職を得る際に助けてくれたビュッシングと協力して教材の作成をしていました。(Väre 2012:118, Lagus 1890:14).
神学者で地理学者のアントン・フリードリッヒ・ビュッシング(1724-1793)。クリストフ・メルヒオール・ロートによる銅版画。
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ドイツ語学校での勤務中に、ラクスマンはスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ラテン語に加えてドイツ語を上達させました。彼は母語がスウェーデン語、そしてサヴォンリンナのフィンランド語圏での生活でフィンランド語を学びました。ラテン語は当時すべての学校で教えられていました。彼が子供だった頃にサヴォンリンナはロシアに支配され、ラクスマンの自宅にはロシア将校が下宿人として滞在していました。そのためロシア語を学ぶ機会を得ました。おそらくラクスマンはフランス語でもコミュニケーションができたと思われますが、それは証明する資料はありません。
サンクドイツ学校での2年間は、ラクスマンにとって学びだけではなく、人脈を築く時期でした。この学校に勤務中に得た重要な人脈としては、当時技術、貿易、農業の専門家としてサンクトペテルブルクに滞在していた若いドイツ人科学者ヨハネス・ベックマン (1739-1811) でした。ラクスマンは学校で良い評価を得ていました。サンクトペテルブルクでの交流関係としては他にフィンランドの研究者K.J.メラートやスウェーデン人探検家J.P.ファルクがいました。ファルクとラクスマンの協力関係は長く続きました。 (Lagus 1890:16).
学校が閉校され、ラクスマンはバルナウルにあったシベリアのドイツ人駐在教区の牧師の職に着任しました。ラクスマンはビュッシングの力もあり、ロシア帝国科学アカデミー、特に 1720 年代にアカデミーの共同創設者であったゲルハルト・フリードリヒ・ミュラー (1705-1783) との繋がりをもつことに成功しました。これにより、ラクスマンはアカデミーのアーカイブとコレクションにアクセスできるようになりました。したがって、シベリアでの活動を開始したときには、ラクスマンにはすでにシベリアに関する知識がありました。ラクスマンはまたアカデミーの特派員にも任命されました。(Lagus, p.18)。さらにサンクトペテルブルクからバルナウルに移動する頃、エリック・ラクスマンはサヴォンリンナ出身のクリスティナ・マルガレータ(旧姓ルンネンベルグ)と結婚しました。未亡人となっていたラクスマンの母親もシベリアの彼らの元へ移ってきていたようです。(Lagus 1890:18-19).
この小さな教区の信徒たちは広範囲に分散しており、1,600キロ以上移動する必要がありました。そのため同時にラクスマンは探索する機会を多く得ました。牧師としての任期は5年でした。ある情報によると、ラクスマンは、後に牧師という職に専門的関心を抱き、フィンランドの教区に移り、牧師として奉仕する可能性を模索した時期があったともいわれています。 (Hintikka 1938b:4-6). バルナウルとその周辺は当時、鉱業の成長地域であり、新しい鉱山や集落が次々に設立されました。
バルナウルにあるラクスマンの牧師館は、彼が哺乳類、植物、昆虫、鉱物のコレクションを収集し、植物の栽培実験などをするにつれ、自然史博物館のようになり、庭は植物園のようになっていきました。 (Hintikka 1938b). 勤勉なラクスマンは、古代ローマの博物学者、大プリニウスの言葉「nulla dies sine linea (線をひかない日はない)」をモットーにしました。彼は、知識を得るために未知の世界に足を踏み入れた探検家についてのプリニウスの記述に影響を受け、自分は次の世代への利益のためだけに働いていると考えていました (Lagus 1890:25). 経済的不安があったにもかかわらず、ラクスマンは1768年以降シベリアでの牧師職の契約を更新しませんでした。
科学教育と人脈
トゥルク(オーボ)大学ではペール・ガッド、ペール・カルム、ヨハン・リーチェの講義を受けました。ラクスマンはベルギウス、ヘレニウス、メナンデルら学者たちと文通を始めました。とりわけカール・フォン・リンネとの文通を通して彼は科学的地位を得ました。 (Väre 2012:117).
スウェーデンにおけるラクスマンのネットワークとしてはリンネの弟子であったカール・ピーター・ツンベルグ(1743-1828)がいました。ツンベルグは18世紀、日本に出島商館付き医師として滞在し、『日本植物誌』(1784)を著しました。ラクスマン自身も1761年にスウェーデン王立科学アカデミーの準会員、1769年には正会員となりました。
ルバーブとその薬用効果はスウェーデンの植物学者たちにとって大変興味深いものでした。
Plantarum indigenarum et exoticarum icones ad vivum coloratae, oder, Sammlung nach der Natur gemalter Abbildungen inn- und ausländlischer Pflanzen, für Liebhaber und Beflissene der Botanik, Lukas Hochenleitter und Kompagnie. 1779.
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ラクスマンはシベリアから戻ると、ロシアでの主要なスポンサーで後援者であったアダム・ヴァシリエヴィチ・オルスフィエフ(1721-1784)との繋がりを更新しました。
ロシア帝国科学アカデミーでのラクスマン
ロシア科学アカデミーは著名な西ヨーロッパの学者を雇用しようとしていましたが、特に関心を集めていたのはスウェーデン人(当時はフィンランド人を含む)学者たちでした。サンクトペテルブルクではリンネが高く評価されていたため、ペール・カルムなどのリンネの弟子たちは注目の対象となりました。特にペール・カルムはロシアと北米への遠征が評価されていたため、アカデミーはカルムに植物学教授のポストへのオファーを出しました。(Lagus p.86)1765年にロシアの有名な学者ミハイル・ロモノーソフが亡くなると、アカデミーは当時すでに科学的名声を確立していたペール・エイドリアン・ガッド を採用しようしましたが、不成功におわりました。この後、1770 年にエリック・ラクスマンが任命されました。(Lagus 1890:86-87, Niemelä 1998:53).
ラクスマンは科学アカデミーの教授としては、大きな研究発表ではなく、むしろ小規模な解説文を執筆しました。その代わりに、彼はサンクトペテルブルクにおける科学コレクションを発展させることに熱心でした。ラクスマンは理論家ではなく、実際的な探検家、発明家でした。
ラクスマンは 1770 年ロシア科学アカデミーの会員に推薦されました。ラクスマンは年収 600ルーブルと住居の提供を受け、化学と経済学の教授としてアカデミーの化学研究室の責任者となりました。(Lagus 1890:76). ラクスマンは 33 歳で、トゥルクのロイヤル・アカデミーのペール カルムに匹敵する地位を獲得しました。ラクスマンのアカデミーでの後援者は、アカデミー学長のウラジミール・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵(1743年 – 1831年)でした。アカデミーではラクスマンはドイツ人学者パラスなどと共に活動しました。パラスは著書『Flora Rossica』(1784-1788)でもラクスマンに言及しました (Väre 2012:119).
ロシア科学アカデミーでの仕事内容と条件はラクスマンには合わず、彼は1880 年にアカデミーでの職を辞退しました。鉱物学での業績により、彼はネルチンスクに拠点を置くシベリアの鉱山の監督に任命されました。ネルチンスクはバイカル湖の東700kmに位置していました。いくつかの非外交的な動きにより、ライバルたちはラクスマンを詐欺罪で非難しました。着任からわずか1年後、ラクスマンは鉱山の経済状況を説明するためにサンクトペテルブルクに呼び戻され、その職を解任されました。彼はシベリアのネルチンスク近郊の村で警察官(ナハルニク)の職に就くことになりました。幸い友人たちの助けもあり、ラクスマンは2年後に告訴を免れることになりました。
名誉を晴らした後、ラクスマンはイルクーツクを拠点とする「帝国の鉱物探検家」に任命されました。これにより、十分な年収とシベリア探検の機会が可能になりました (Väre 2012:121)。 これはエリック・ラクスマンにとって夢の仕事であり、彼は残りの生涯、イルクーツクに拠点を置き、学者の給与に相当する高額な給与を受けることになりました。
ラクスマンの科学への貢献
植物学者として
エリック・ラクスマンの最も知られている科学への貢献は、スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネが種の分類法である「自然体系」を考案していた時期に、シベリアの植物を収集する作業に協力したことです。彼は植物の標本、種子、サンプルをリンネと彼の同僚に送りました。現存する標本のほとんどは現在、ヘルシンキ大学の植物博物館とロシア科学アカデミーの植物研究所に保管されています。
ラクスマンの植物学における先駆的な研究は、ステパン・ペトロヴィチ・クラシェニンニコフ(1711-1755)によって開始され、1761年にダヴィデ・デ・ゴルテル(1717-1783)によって出版された共同研究の付録 [ad floram ingricam 1764] でした。エリック・ラクスマンの付録は、24種の研究について補足しました。 (Laxman 1764). これは彼の最初の科学出版物でした。
1764年バルナウルに向かう途中、モスクワに滞在していたラクスマンはシベリアの植物収集に協力できる可能性があるかどうかを尋ねるためにリンネに手紙を書きました。リンネの情熱的な返信はバルナウルにいるラクスマンに届きました。リンネはラクスマンにシベリアからActaea, Hyoscyamus, Hypecoum, Trollius asiaticus などの植物標本を送るよう依頼しました。これがリンネへの協力の始まりでした。手紙の大部分はスウェーデン語で書かれ、その後計24通にまで及びました。ペール・カルムから受け取った北米の植物の栽培実験が失敗した後、リンネは植物の種子がスウェーデンでも生き残ることを期待して、ラクスマンに送るよう依頼しました。 (Hintikka 1938b).
スウェーデンの医師で植物学者のP.J.ベルギウス(1730-1790)はラクスマンに薬用植物としてルバーブを探すように依頼していましたが、それが入手できたのは中国からのみでした。ラクスマンはシベリアで生育しているルバーブを見つけ、1766年その種子をベルギウスに送りました。ところが、残念なことにシベリアの種は中国の種とは別のものでした。 (Lagus 1890:35-37).
Date of publication | Species | Site | Current names and description |
1771 | Veronica pinnata | Sinyaya Sopka mountaine, Lesser Altay | Veronica pinnata L. (1767) |
1771 | Spiraea altaiensis | Lesser Altay | Sibiraea laevigata (L.) Maxim (Spiraea laevigata L. 1771 Pastorinpensas (FI) |
1771 | Dracosephalum altaiense | Lesser Altay, Sinyaya Sopka | Dracosephalum grandiflorum L. (1753) Dragonhead (EN) Altainampiaisyrtti (FI) Змееголовник крупноцветковый (RU) |
1771 | Robinia spinosissima | Selenga River | Caragana spinosa (L.) DC. Robinia Spinos Laxm. (1771) |
1771 | Trifolium dauricum | Selenga River | Lespedeza daurica (Laxm.) Schindl. Bush clover (EN) |
1772 | Koelreuteria paniculata | China (greenhouses in St. Petersburg) | Koelreuteria paniculata Laxm. Rakkopuu (FI) Pride of India (EN) |
1774 | Gentiana grandiflora | Lesser Altay | Gentiana grandiflora Laxm. |
1774 | Sibbaldia altaica | Altay mountains | Chamaerhodos altaica (Laxm.) Bunge Chamaerhodos erecta |
1774 | Ornithogalum uniflorum | Lesser Altay, Sinyaya Sopka | Tulipa uniflora (L.) Bess. ex Baker (Ornithogalum uniflorum Laxm. 1767) |
1774 | Ornithogalum altaicum | Altay mountains | Gagea serotina (L) Ker Gawl. Lloydia serotina (L.) 1753 Rchb.(Bulbocodium serotinum L. 1753) |
1774 | Polygonum sibiricum | Altay mountains | Knorringia sibirica Laxm. Tzvelev |
1774 | Ranunculus altaicus | Altay mountains | Ranunculus altaicus Laxm. |
1789 | Parnassia (unnamed) FI: pastorinvilukko | unknown | Parnassia laxmannii Pall. ex Schultes |
種に関する詳細な情報については、表に提供されたWikispeciesへのリンクをご利用ください。.
ラクスマンはこれらの種について詳細なイラストを描きましたが、新種の発見の発表には時間がかかりました。そのためリンネはラクスマンが発見した種の多くを発表しました。
エリック・ラクスマンによって描かれた植物イラスト |
鉱物学者として過ごした晩年は植物標本の採集に費やす時間はあまりありませんでしたが、それでもストックホルムのP.J.ベルギウスやトゥルクのP.A.ガッド、P.S.パラスやサンクトペテルスブルグ植物園に種子や標本を送り続けました。その結果、6つの新種に発見者の名がつけられました。 (Heiska 他 2005:167-168).
植物研究の実用的応用
植物学において古代から注目されてきたのは植物の食品や薬用としての可能性を研究することでした。そのためラクスマンの研究も実用的植物としての様々な種や品種を使った実験でした。
彼はサンクトペテルスブルグの経済会の活動のひとつとしてシベリアでジャガイモ栽培 を導入したと考えられています。 ラクスマンはフィンランドにルバーブの栽培を紹介した人物としても知られています (Heiska 他 2005:164)。
1771年、ラクスマンは、圧搾油のためのドワーフ ロシアン アーモンド (Prunus tenella) の利用に関する研究を発表しました。樹木に関しては、ラクスマンはロシア北部におけるシラカバ、カエデ、シナノキ、ハンノキ、オーク、トネリコ、マツ、トウヒの種子栽培を研究し、それに基づきシベリア草原の植林の可能性についての論文を書きました (Laxman 1771, Laxman 1769)。
化学者および鉱物学者として
エリック・ラクスマンは功利主義の観点から鉱物学と化学に強い関心を持っていました。彼の発明は鉱物の開発とガラス製造技術の発展に寄与しました。 ラグスによれば、ラクスマンは農業化学の創始者であるヨハン・ゴットシャルク・ワレリウス(1709-1785)の著作を読み化学を学んだということです(Lagus 1890:30)。
「バルナウルで、ラクスマンは地元の薬剤師ブラントに出会い、彼から化学合成の初歩を学びました。ラクスマンは、シベリアの冬の低い気温における溶解度の大きな違いを利用して、シベリア北西部の塩湖から得た塩化ナトリウムから硫酸マグネシウムを抽出しました。その後、硫酸マグネシウムは精製され、消化促進剤としてサンクトペテルブルクで販売されました。この間に、ラクスマンは数人の科学者と知り合い、実りある文通を始めました。」 その他の化学実験は、鉱石からの銀の分離と塩化ナトリウムの精製方法に関するものでした (Karlsson & al. 2010)。
エリック・ラクスマンはガラス製造に関心があり新しい製造方法を発見しました。この分野の重要性は、フランスのドゥ二・ディドロによって1751年から1772年にかけて出版された”Encyclopédie ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers” に掲載されたガラス製造に関する図解に反映されています。
Image Source: Wikimedia Commons.
ラクスマンはイルクーツク近郊にガラス工場を設立し、ガラス製造のために開発した方法を採用しました。この試みにおける彼のビジネスパートナーは、ロシア領アメリカの有名な植民者であるアレクサンダー・アンドレヴィチ・バラノフであり、彼の名はアラスカ沿岸のバラノフ島の名に残っています。ラクスマンの化学実験とガラス製法の発達に関する研究は、彼がガラス製造工場を持つ機会をもたらしました。彼は、炭酸カリウムの代わりに硫酸ナトリウムを使用してガラスを製造する方法を考案しました。炭酸カリウムは木材から大量に生産されていました。ガラス工場付近で広範囲な森林伐採が行われていました。ラクスマンは、硫酸ナトリウムを炭酸カリウムに変換する実験を開始しました。硫酸ナトリウムはより容易に入手することが可能でした。ラクスマンは自身のガラス工場で、新しい方法のデモンストレーションに成功しました。 (Hintikka 1938a:6). ラクスマンは体系的にイノベーションを発展させたわけではありませんでしたが、それでもこの分野における彼の功績は驚くべきものでした。
イルクーツクを拠点に鉱物の探査、収集をする帝国の鉱物学者として、ラクスマンはバイカル湖の南西で大きなマラカイト鉱床を、レナ川の支流沿いで貴重な石を発見しました。 (Hintikka 1938b:4).
ラクスマンによって発表された鉱物はトレモライトとバイカライトでした。ラクスマンは、エカチェリーナ 2 世の命令により広大なラズライト(ラピスラズリ)鉱床を発掘し、それはサンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ セローにあるエカテリーナ宮殿の有名なラピスラズリの間の装飾に使用されました。
ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿のラズライトのテーブル
Image: Andrey Korzun 2008. Wikimedia Commons.
極東ヤク―ティアのオリョークミンスクを旅行中、ラクスマンはビリュイ石とグロッシュラー(灰礬柘榴石)を見つけました (Heiska 他 2006:164)。
ラクスマンはシベリアでの化石の発見を発表する古生物学研究の先駆者でもありました。
1794年に発見された化石の図
ロシア帝国とシベリアの探検家
エリック・ラクスマンは、常に新しい遠征や未知の地域に出かける準備ができていました。彼は生涯を終えるまで新たな遠征を計画していました。計画の中には極東と日本への遠征もありましたが、実現することはありませんでした。
バルナウルからラクスマンはオビ川の上流とトムスクとウスチ・カメノゴルスク(現在のカザフスタン)を訪れました。シベリアでの初期(1766~1767年)には、キャフタと現在のロシアのモンゴル国境地帯にも足を運びました。1767年、疲れ知らずのラクスマンは小アルタイ山脈を訪れ、観察と標本収集を行いました。これはアルタイでの最初の科学的探査でした。加えてラクスマンは植物標本や昆虫種を収集しました。彼はセレンギンスクからチベット語の彫刻のメモをミュラーに送りました。これらの功績により、ラクスマンはドイツで認知されました (Lagus 1890:39, Väre 2012:118)。
1770 年にシベリアからサンクトペテルブルクに戻ったエリック・ラクスマンはオロネツ (アウヌス) を訪れ、その際、生まれ故郷のサヴォンリンナにもおそらく訪れたと考えられます。同年、ロシア科学アカデミー会長オルロフとともにベッサラビアとモルドバを旅しました。 (Laxman 1773) 、昆虫と鉱物の収集を続け、サレプタ(ヴォルゴグラード)の温泉を調査しました。 1779 年ラクスマンは再びロシア北西部とオネガ湖地域を訪問し1782 年に報告書を発表しました。
鉱物探検家としてイルクーツクに移住した後、ラクスマンはウラル山脈の東に住むフィン・ウゴル系民族の存在を初めて記録しました。彼はUst Turkaのバイカル湖地域の温泉を記録し (Lagus 1890:57), 、ヴィリュイ川地域でダイヤモンドと貴重なラズライト鉱床 (半貴石) を発見しました。この鉱物は後に 1857 年にフィンランドの鉱物学者ニルス・グスタフ・ノルデンショルド (フィンランド鉱業会の会員、ロシア科学アカデミーの準会員) によって記載されました。N.G. ノルデンショルドは北東航路の発見者 A.E. ノルデンショルドの父親です (Wikipedia s.a.)。
ラクスマンは、シベリアの人々の宗教に関連する民族資料を収集した最初の人物の一人でした。 (Erik Laxman 1769). 1788年、ラクスマンは調査エリアをネルチンスク地域の山々にまで広げ、アンガラ川沿いの塩泉とオイルシェールとともにニジノイジンスクの鍾乳洞を発見しました。彼はまた、レナ川に沿ってオレクミンスクまで旅しました (Heiska 他 2005:164)。
その他科学への貢献
エリック・ラクスマンは、幅広い興味、観察、探検調査、実験を通じて、植物学や鉱物学に加え、科学の多くの分野における先駆者となりました。多くの場合、彼はロシア科学においてこれらの分野を最初に研究しただけでなく、国際的に活躍する人材として科学調査を行いました。
経済地理学
1768年にサンクトペテルブルクに戻ると、ラクスマンはファルクとともに、地域の経済と農業の問題を研究する新しく設立された自由経済協会のメンバーに招待された。経済協会は世界で最初の経済学会の一つであり、ロシア初の学識団体であり、後にロシアの自由主義の防波堤とみなされました。協会はオロネツ(アウヌス)の状況を調査するためにラクスマンを派遣しました。ラクスマンは経済状況、農業、林業について報告し、改善策を提案しました (Hintikka 1938a:6, Heiska 他 2006:163)。
ラクスマンは、その研究活動と出版物によって、サンクトペテルブルクの科学アカデミーの教授に選ばれました。
ラクスマンは広範囲を旅し、ロシアのヴォルガ流域、18世紀に新たにロシアによって征服されたウクライナとベッサラビア(現在のモルドバ)地域の地理的条件に関する知識を収集しました。彼はまた、ヴォルガとヴァルダイ丘陵の源流への探検やラップランドのコラ地域、オロネツへの二度目の遠征も行いました。
ラクスマンは生態学的問題を理解しており、自然の変化を観察しました。彼は漂砂と砂丘を観察し、砂地植物を利用することで砂丘を止める提案をしました (Lagus 1890:40, Heiska 他 2006:163)。 彼はその研究結果を「Neue Mittel zur Befestigung des Flugsandes」というタイトルで発表しました (Laxman 1768)。
ラクスマンが展開した経済地理学において最も偉大なビジョンは、日本に関する情報を収集し、閉ざされた領域であった日本との通商関係を結ぶための道をつくることでした。ラクスマンは、シベリアの日本人漂流民たちとの関係を築き、情報を収集し、日本への遠征を勧め後援しました。ロシア帝国はカムチャッカ半島、アリューシャン列島まで太平洋に勢力を拡大していました。ラクスマンはイルクーツクで漂流民、大黒屋光太夫と作成した非常に詳細な日本地図を所持しており、1790年にサンクトペテルブルクに送りました。 (Heiska 他 2006:165). 大黒屋光太夫とその乗組員を日本に帰国させる遠征は、ラクスマンの息子アダムによって達成されました。
ラクスマンの大志は高まり、日本への二度目の遠征を計画し始めましたが、それは彼の死により中断されました。
動物学者として
エリック・ラクスマンの熱意は植物だけにとどまりませんでした。彼は動物学の分野でも多大な貢献をしました。彼はロシアで初めて昆虫学の研究を発表しました。彼が発見した動物種には、シベリアのゾコル (Myospalax myospalax) (Laxman 1771a) やヨーロッパヒメトガリネズミ (Sorex minutus)が含まれていました。彼はまた化石の収集も行いました。
ラクスマンによって描かれたシベリアン・ゾコル
ラクスマンはシベリアシマリスに学名を付けました (Tamia sibiricus, 1769)。
Richardfabi 2003. Wikimedia Commons.
鳥類学の分野ではラクスマンはスウェーデン王立アカデミーにコシアカツバメの記述を送っています。 (現代名: Cecropis daurica Laxman, 1769. Lagus 1890:63, Heiska 他 2006:163).
カール・フォン・リンネはシベリアの昆虫に関する情報を受け取ることに非常に興味を持ち、エリック・ラクスマンに宛てた最初の手紙で、シベリアの昆虫を収集することを提案しました。ラクスマンは昆虫種の収集を始め、その後サンクトペテルブルクで結果を発表しました。これはロシア初の昆虫に関する論文であり、エリック・ラクスマンはロシアにおける昆虫学の先駆者となりました (Laxman 1770, Hintikka 1938b)。
1767 年の リンネ『自然の体系』 では、ラクスマンはバッタの種である Gryllus sibiricus (現在は Gomphocerus sibiricus) と新種のハエの種である Conops petiolata (現在は Physocephala rufipes) を提供しました。サンクトペテルブルクに送るために彼が何年にもわたって収集したコレクションには 368 の標本が含まれており、そのうち 10 種を彼はシベリアの昆虫に関する論文で説明しています (Lagus 1890:29)。
1770年にエリック・ラクスマンによって描かれた昆虫図
気象学者、物理学者として
18世紀に、エリック・ラクスマンによって物理学、物理的な測定とその記録方法が大きく前進しました。 ラクスマンはシベリアに滞在し、低温での水銀の凍結を実際に体験しました。この現象については議論はされてはいましたが、ヨーロッパの学者が実際にアクセスできることはほとんどありませんでした。 (Blagden 1783)
バルナウルでは、ラクスマンは気温、風向、オビ川の水位など気象学的および水文学的な測定を含む自然現象の観察を開始しました。ラクスマンは、ガラス製造の進歩に力を入れていたことも役に立ち、自分で製作した温度計と気圧計を自身で使用するだけでなく、シベリアにいる知人に配布し測定してもらいました (Hintikka 1938a:6, Lagus 1890:26)。
ラクスマンの時代、フランスやロシアでは気温はレオミュール度(列氏温度)を用いて測定していました。ラクスマンが製造した温度計が現存するかどうかは分かっていません。シンフェロポリの博物館に古いレオミュール温度計が残っています。
Image: Andrew Butko. Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0 Deed.
民族学者および考古学者として
一連の気象観測結果はすでに 1765 年にハノーバーの雑誌と [Sibirische Briefe (August Ludvig Schlözer Göttingen und Gotha], Laxman 1769)。 に発表されました。科学に関しては、ラクスマンは、彼でなくては得られなかったであろう情報を提供しました。ラクスマンにはシベリアの広い地域をカバーする豊富な気象データを収集するために、協力者としてネルチンスクの薬剤師とイルクーツクの医師がいました (Lagus 1890:27)。 気象観測結果を発表し、ラクスマンは気象学の先駆者となりました。
ラクスマンは中国国境近くを旅行中、モンゴルのオルホン渓谷にある古いテュルク文字(突厥文字)で書かれたオルホン碑文を調査し報告しました。そのため、フィン・ウゴル学会は1780年代後半に碑文を記録し転写することができました (Hintikka 1938b)。
ラクスマンからウプサラ大司教カール・フレドリック・メナンデルに宛てた手紙の中で、ラクスマンが旅行中にロシアのフィン・ウゴル系民族について調査したことが明らかになりました。ラクスマンは、このテーマに関するヘンリック・ガブリエル・ポーサンのイニシアチブと、その研究を開始したいという彼の願望に応えました。ラクスマンは広範囲にわたる記述の中で、人々とその居住地域をリストにし、これらの人々の間の言語、建築方法、習慣の類似点についてコメントし、研究を進めることの重要性を強調しています (Hintikka 1938b:4)。 ポーサンはロシアに旅行したことはありませんでしたが、ラクスマンはこのようにしてアイデアを推進し、1840年代に活躍したマティアス・アレクサンダー・カストレンの下地を整えました。鉱物学や考古学の場合と同様に、ラクスマンは言語学や民族誌学の分野でも後のフィンランドの研究に大きな影響を与えました。
著者Pellervo Kokkonen